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つれづれに本のこと観劇のこと、日々抱いた思いを綴っています

地震の記憶

私の田舎は東北です。

もっとも古い地震の記憶は1983年の「日本海中部地震」。

忘れもしない5月26日です。

同じ年の小学生が遠足中に津波に巻き込まれて大勢亡くなりました。

地震は校庭で体育の授業中で、立っていられないほどの揺れを経験し、帰宅後は祖母と父が農作業の帰りに経験した大きな揺れについて話していたことを覚えています。長い時間余震があり、子ども心におびえながらの日々を過ごしました。

 

その次の記憶と言えば、阪神淡路大震災。

関西で大学生だった私。その日は徹夜で提出間近の卒論を書いていました。

うとうとしていたところ、朝方に大きく揺れ、不安定に積み上げられていた本が崩れました。ただ事ではないと思わず東北の実家に電話をしたのですが、祖母が不思議そうに電話口で話していたのを覚えています。

そこから、コンビニの水がなくなったり、同級生が大変な状況なのにリュックをしょって歩いて電車が動いている駅まで来て卒論を出しに来たり・・記憶が鮮明です。

 

それから、東日本大震災。

自分は九州にいたので、必死で実家の母に連絡を取ろうとしたのを覚えています。

職場に電話したら、全然危機感がなくて・・半笑いで外回り中だと言われたのは忘れられない。夜中電気がなくて真っ暗な国道をタクシーで帰ったと、母に後から聞きました。タクシーの運転手さんに感謝です。父は電気がなく寒い家で布団にくるまってひたすら待っていたと。

弟一家は東北の別の土地にいたのですが、さらにしんどい経験をしています。

私の田舎は奥羽山脈の麓なので、テレビで報道されたような被害を受けた地域とはちょっと離れているのです。なので主には停電が大変だったわけです。

私の夫の方が大変で、大学が仙台だったので必死でいろんな人の安否確認をしていました。そして自分が慣れ親しんだ場所の変わり果てた姿に胸を痛めていました。

 

そして、大阪北部地震。

ピンポイントな被害だったのですが、登校中の小学生が亡くなったことが大きく報道されました。あの学区に夫が住んでいました。

朝起きて地震を知り、夫と連絡をするも連絡がつかない・・

焦る自分。どうしようもない・・でも確認しなくては・・

とりあえず、本人が無事であることを確認し、娘の小学校に連絡したところ、かえって娘を驚かせてしまいました。他の人から不確かなことを言われないようにと思って連絡しましたが、完全に失敗でした。逆に不安な思いを抱かせてしまったようです。

夫の部屋はむちゃくちゃに壊れ、住める状態になく、大家さんがしばらく壊れていない別の物件に住まわせてくれました。

これがきっかけで私は2カ所での別居婚を解消する必要を強く感じたのです。その年、転職活動を絶対にやり遂げようと決意を固めました。

そして今に至ります。

 

ふりかえれば、日本に生きているせいか、これまで何度も大きな地震体験をしていることがわかりました。とはいえ、揺れに直撃されて、家が壊れて避難所にいって・・というのはないのです。

熊本地震の時も物流がとまり、パンがなくなって、小さな子ども達が毎日食べていたパンが手に入らず、苦労しました。でも被災した方からすればそんなことどうでもいいくらい小さな事です。

噴火もありました。

新燃岳が噴火したとき、空振で窓が突然揺れる体験を何度もしました。そして、真っ黒な雲がそちらから流れてくるのを見て、世界が終わるときはこんな感じなのだろうかと漠然と恐怖を感じたことも覚えています。

 

考えればいくらでも体験していますね。

きっとみなさんそうなんだと思います。

 

まずは持っていたポイントを全て募金に回しました。

この後、さらに募金をしたいと思います。実際にお手伝いできないですし、それが今できることかと思います。

 

お正月久しぶりに集まった家族と団らんする喜びは私もよくわかります。そんな楽しい時間を一瞬で悲しいものに変えてしまった今回の地震。本当に本当に胸が痛いです。

なんでこんなことになるんでしょう。特に小さな子ども達・・元日の夕方ですよ。普通は楽しい気持ちでいっぱいじゃないですか。

 

今は被災した方の生活が今より少しでもよくなることを祈りますし、できることをしたいと思います。

 

この後、観劇記録で元旦に劇場で体験した様子を書こうと思います。